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加古川の地域情報サイト「まいぷれ」加古川市

地元民が語る加古川ネタ知っとう?

兵庫の物流は川が中心だった?近世から近代の「加古川水運」の歴史を調べてみました!

明治期に鉄道が普及するまで、 物流では陸路よりも水運が活用されている。 兵庫県内で最大の河川である加古川は、江戸時代の播磨の交通の要だった。

【地元民が語る加古川ネタ知っとう?】は、加古川の地元民だからこそ知るスポットやイベントの情報を突撃取材し、加古川の魅力をバシバシ播州弁で発信していくコーナーです。
【加古川1】
【加古川1】
ども、加古川ご当地ライターのまっすんです。

今回で、203記事目の掲載記事!

「加古川水運の歴史」をご紹介します!!

加古川は以前にも、下記記事でご紹介しましたが、今回は歴史について!!

加古川(河原地区)の河川敷公園に取材に行ってまいりました!

加古川河川敷の「加古川みなもロード」を取材してまいりました!

【加古川2】
【加古川2】
加古川は、 まっすんが住んでいる朝来市の粟鹿山を水源とする佐治川に中流域で篠山川などが合流して形成されているとのことで、なんか「加古川市と朝来市」のご縁をすごく感じます。今度登山しよ!!

全長は約96km、流域面積は1730K㎡と兵庫県の面積の5分の1以上とのことで、さすが、川の等級も1級河川に認定されているだけのことはあります。

古くから加古川は水運に利用され、古代には水夫や船頭を「かこ」と呼んだので、 加古川の名もそれに由来するなどといわれているそうで、加古川で生まれ育ちましたが、まっすん知りませんでした!!

一生勉強!!勉強!!


【加古川3】
【加古川3】
飛鳥時代の7~8世紀、 街道では30里 (約16km) ごとに、馬による輸送と通信の拠点として駅家(うまや)が置かれたそうで、これは以前のまっすんの取材記事でも紹介しました!こちら!!

加古川市野口町にある古大内遺跡(賀古駅家跡)を取材してまいりました~!!


加古川の河口にあった賀古 (加古) の駅家 (現在の加古川市野口町)は最大で40頭もの馬を配置し、その西の水駅(渡船場) では、常に2~4隻の川船を配置していたといわれています。

「駅の家」と書いて、「うまや」と読むそうですが、実際に馬が居て、海運と陸送の拠点になっていたということですね。

今では、陸送がメインの時代になりましたが、昔は川での運搬が主流だったってことですね♪
【加古川4】
【加古川4】
加古川を利用した交通網が本格的に整備されたのは16世紀末からとのことで、400年以上前ですね。加古川の歴史は深い!

歴史は戦国時代にさかのぼって、豊臣秀吉が天下統一を果たして大坂に拠点を置くと、丹波や播磨の内陸から大坂への年貢米の輸送量が増え、山中の陸路を使うより水運のほうが輸送しやすいと判断されたそうです。

当時は確かに、歴史で勉強しましたが、年貢制度があったので、お米を運搬していたようですね。


【加古川5】
【加古川5】
1594年、 秀吉の家臣である生駒玄蕃の命によって、 加古川中流域の闘竜灘 (現在の加東市) より南で川底の岩石を取りのぞく作業が進められたそうです。

闘竜灘は、大きな石がある場所なので、それより下流が整備されていったという流れのようですね。加古川は歴史をさかのぼっても、大きな水害などがなかったはずなので、これは先人のおかげでもありますね。


【加古川6】
【加古川6】
闘竜源は巨岩が大量に露出した難所なので、船から一度荷を降ろして滝野(たきの)まで運んでから、ふたたび船に載せなければならなかったそうです。すごい労力ですね。船が通れなかったということですね。

江戸時代に入ると、 姫路藩主の池田輝政が、 闘竜灘より北でも川底の岩石を取りのぞかせたり、下流の高砂で運河や船着場を整備させたりしたそうです。

【加古川7】
【加古川7】
加古川の水運に使用されたのは、平底で箱形の高瀬舟だそうです。

大きなものでは全長約11m、幅約2.4m、 1艘の水夫は3人、最大そう30石 (約4.5t) の米を積載できたとのこと。

江戸時代の後期には、 加古川流域には37カ所の船着場があり、300艘の高瀬舟が運用されてい
たといわれています。すごい数!!

米以外にも、 シイタケやこんにゃく、玉ねぎ、菜種など内陸で生産された農産物が輸送されたそうです。

【加古川8】
【加古川8】
江戸時代の加古川の船主たちは、藩が定めた監督役の船座に収益の一部を上納しなければならず、船主の新規参入は制限され、運賃を自分で定めることもできなかったとのことで、とても厳しい時代ですね。

明治維新後、船座が廃止されたため新規の船主が増加し、さらに闘竜灘の開削工事が進められたため、 加古川の水運は活発化
したとのことです。

明治に入ると、機械化が進んだり、海外の治水技術が伝わってきたのかもしれませんね。
【加古川9】
【加古川9】
しかし、1899年には阪鶴(はんかく)鉄道 (のちのJR福知山線) が開通するなど、 陸路の輸送網がしだいに発達し、大正期に入ると河川を利用した水運は衰退に向かったそうです。

今では道路が整備され、陸運が主流となりましたが、空運もされているので、海外との取引もできるようになり、一気に歴史が進みましたね。そんな便利な時代に生きれていることに、ライターまっすんも感謝!!


 
次回の加古川取材をお楽しみに~♪

以上、ご当地ライターのまっすんでした~!!


(記事作成日:2022年10月28日)
▼ 「加古川市」が紹介されている動画はこちらから!! ▼
《 下記のポイントは要チェック 》

1.   まっすんが住んでいる加古川の源流を訪問すべし!!
2. 闘竜灘には、一度足を運んでみるべし!!
3.   加古川の歴史を学ぶべし!!
4. 駅家(うまや)のルーツを探ってみるべし!!
5.   水運の歴史に感謝すべし!!
【増田兄弟・兄まっすん】  ※  写真は30代前半!!(笑)
【増田兄弟・兄まっすん】  ※ 写真は30代前半!!(笑)
【加古川ご当地ライター まっすん(増田兄弟)のプロフィール】

高校まで加古川で生まれ育ち、大学は東大阪の近畿大学でしたが、通っておりましたので約20年ぐらい加古川で生まれ育ちました。20から30代前半までは、大阪・神戸で仕事しておりましたが、2012年から加古川駅前に「会員制レンタルオフィス~エリンサーブ~」の立ち上げに関わり、現在は起業支援の仕事をしながら、10個の仕事をこなすパラレルワーカーとして活動しております。

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